ミンダナオの土に眠る

ともに御戦(みいくさ)におもむきし

白衣の天使たちの御霊(みたま)にささぐ


武山(旧姓:尾崎)敏枝さんと小田(旧姓:鍋島)美代子さんの共著「散華抄」を
より多くの方にみていただきたくて、原文のままウェブサイト化したものです。
当サイトで使用している写真画像は美代子さんの私物です。
お預かりして Flickr でデジタル保存しています。
(学習教材としてご利用の場合は、Flickr の高画質をダウンロード可能です。)


1)召集令状を受けて

【写真:日赤の卒業式】

中国大陸での戦線拡大で従軍看護婦が足りなくなり、日赤は看護婦の教育期間を2年半に短縮(従来は3年)したり、高等小学校を卒業した人に2年間のコース(従来は高等女学校卒業後)を開いていた。

女学校卒業後に日赤看護婦養成所に入った私(尾崎)は、昭和18(1943)年2月8日に1ヶ月のくり上げ卒業をして、その10日ほど後に召集令状を手にした。

【写真:前列左が美代子さん】

出発の前日、家の前には旗がいっぱいたっていた。出発は早朝にもかかわらず、近所の人はもちろん、女学校の先生や級友がたくさん見送りにきてくださった。挨拶のための壇も用意されていた。

日赤第376救護班要員として召集された私達は、神戸から広島に向かい、ここで兵庫,新潟,茨城,静岡,滋賀,台湾の6班で乗船を前に広島の護国神社に参拝した。

班員24名中、日赤の同級生が11名で、ほかは内地の各陸軍病院から選り抜きの上級生だった。


翌日、県知事婦人等の壮行会を受けて神戸駅から広島に向かい、広島で1週間をむなしく過ごした。

昭和18年3月12日:宇品からランチで病院船“瑞穂丸”に乗り込んだ。船倉には足の踏み場もないほど、十字の腕章を巻いた兵隊が乗っていた。夕闇の迫る頃、瑞穂丸は瀬戸内海を西へ向かって出航した。やがて五島列島が見えなくなった頃から波が荒れて船酔いする者がでてきた。夜は豆電球だけの蒸し暑い船倉で、昼は輸送指揮官の命令で縄ばしごを使っての避難訓練の1週間だった。 

3月19日:委任統治領のパラオ島に上陸してすぐ南洋神社に詣(もう)でた。そこには内地と同じ袴(はかま)をはいた美しい巫女(みこ)さんがいて社殿が立派なのにおどろいた。日本からの移民の方たちの家には畳が敷かれ、飯台(はんだい)のそばには飯びつが置かれて、内地と同じ様子に不思議な懐かしさを覚えた。その夜はパラオの沖で乗組員一同、甲板(かんぱん:デッキ)に出て南方の紫の夜を楽しみながら演芸会に興じた。 

パラオ港を出て二日ほどしたとき全員甲板に集合がかかった。やがて、おもむろに輸送指揮官が「あなた達はこの船でどんなところへ行くかと思っているであろう。シンガポールにあるいはセレベスにと思いをはせていることと思うが、実はそんな華やかな街に行くのではない。青い草原に羊が放し飼いにしてあって、赤い腰巻をした土人のいるラバウルという最前線に行くのだ。君たちは内地出港の際、一週間の広島滞在があったのを思い出して欲しい。このとき軍は、広島でこの救護班は解散させて欲しい、女の身で未開地の最前線派遣は何としても無理で、生命を受けあいかねるからという強い反対を出したところ、日赤本社より軍旗のはためくところ必ず赤十字旗あり、いまさら解散なんてとんでもない、という強い要望で出港となったのだ。だから大変なことだろうと思うが兵隊たちは赤道以南において炎熱と戦いながら君たちの手を一日も早くと待っている。どうか皆さん元気を出してあくまで自分の健康に気をつけてお国のためにつくして欲しい。」と、初めて行く先を告げられた。もちろん私たちは外地に派遣されることを強く希望していたので、これからの未開地での職責と生活に雄心をわかせた。


2)ラバウル上陸

昭和18年3月27日:船は静かに港湾に入った。入江の波打ち際すれすれにヤシの木がちょうど日本の松のような形に突き出て、右手には富士山を丸くしたような山の頂上から煙が噴いている。一瞬どこで戦争が行われているのかと不思議に思われるほど、静かで美しいたたずまいのラバウル港であった。

三週間の航海中、前後して航行していた輸送船が潜水艦にやられた。あっちこっちから起こる兵隊の緊張した敵襲を知らせる声におびえ、身を硬くして船倉に身を縮めていたこの三週間を思い、無事の入港に感謝したものだった。

我々がランチに分乗して上陸する様を、島の住人はノロノロと動きながら遠巻きに見ていた。その体は真っ黒でまるで黒ダイヤのようなつやがあり、唇には真っ赤なビンロージュを塗り、赤いラプラプを腰に巻いていた。

 

兵庫,新潟,茨城,滋賀,台湾,静岡の6個班は、ラバウル港での輸送指揮官からの最後の挨拶と訓示の後、ココポ,赤根の兵站病院,田の浦病院への配属を告げられた。私たち兵庫班の勤務地はココポ第103兵站(へいたん)病院で、ラバウルから数km離れた奥地で、もっか攻撃を受けているラバウル地区には一班も残らなかった。


3)ココポの勤務

軍用車に分乗してのココポまでの途中、バナナ林やヤシ畑の中で、吹き流しのついた略帽の兵隊があちらこちらに一かたまりになって懸命に手をふりながら歓声をあげていた。小休止をすると、たちまちその辺の部隊から何杯かのバケツに、ココアやバナナなどが届けられた。

ココポに到着したのはほとんど日が暮れかかった頃で、宿舎へ直行した。宿舎はバラックだが床の荒板の上にワラのマットがずらりと並べてあった。「夜間はほとんど空襲があるので気をゆるめないように」との注意があったので、マットの横に靴を置き眼鏡をかけたまま服も脱がずに横になった。夜半の空襲警報に跳び起きて見ると、敵の攻撃目標はラバウル地区であった。南十字星が夜空に美しくまたたく中をサーチライトがあかあかと動いていた。

翌朝から兵庫班は外来病棟と将校内科の二班に分かれ、私達(尾崎と鍋島)は内科に配属された。将校は部屋の中の板の上で、まわりのコンクリートの上には毛布一枚を敷いた兵隊が、足の踏み場もないほどゴロゴロと転がっていて度肝をぬかれた。このときから息つく暇もない目まぐるしい日々が始まった。毎日勤務に出るたび、幾人かが死んでいた。

ココポでの2ヶ月間、時沢主任,飯田中尉,竹内さん,岡谷さん,兼折さん,多々和さんら多くの方に忘れられないほど親切にしていただいた。ジヤマンシンもその中の一人だ。インドネシア人だが、私と一緒に病理の可検物の係になり、端麗な顔に一抹の寂しさをたたえてよくインドネシアの話をしてくれた。

将校病棟の外のヤシ畑のむこうに建てられた精神病棟も私達の係だった。性的なことだけを口にする患者や戦闘作戦のことだけを言う現役将校など、佐官級から一等兵までたいへんな人数だった。顔が紫色に腫れた年老いた少佐は(暴れるからであろう)担架に手足を縛られて何とも言いようのない笑い声を上げていた。人間の弱さを目の当たりにしながら「これが前線なのだ」と、夜明けから暗くなるまで走り回った。

ココポ2ヶ月の間に戦死前日の山本五十六元帥の訪問を受けたことも忘れ得ないできごとの一つだ。

6月22日:私たち将校病棟勤務の兵庫班11名はラバウル患者療養所に転属を命じられ、最前線に行く勇士のような送別会に送られてラバウルへ向かった。空襲の連続に悩むより悲しかったのは兵庫班が二班に別れることだった。


4)ラバウル患者療養所

剛(ごう)第3015部隊はインテリぞろいの衛生隊で、上も下も心を一つにして本当に気持ちのいい部隊であった。少人数ということもあり隊長はじめ全員が親とも兄弟とも思えるような人たちで安心して過ごせた。ここではニューギニア・ブーゲンビルから潜水艦で直接輸送されてくる患者を収容し、たびたびやってくる大空襲のあいまをぬって壕の内外をとび廻りながら救護活動が展開された。文字通りきりきり舞いの連続だったが苦痛に思ったことはなかった。

朝食が終わると全員、壕道(ごうどう)を通って広場に集合し高野隊長の抜刀指揮で宮城遥拝(きゅうじょうようはい)をし、『これが最後になるかもしれない』とひそかに覚悟を決めて、黙祷(もくとう)をささげて勤務に就いた。

病室を任されるのは私たち看護婦と少数の衛生兵だけで、下士官や将校は毎日スコップを肩に壕(敵の攻撃から身をまもるために掘った溝や穴のこと)掘りをし、隊長は炊事場で使役(しえき)という前線ならではの風景。二、三日で隊の気風にも慣れた。その頃“ラバ患者園遊会”が開かれ、私たちはおしるこ屋やうどん屋になり演芸会で歌と寸劇をした。その時の様子が内地のアサヒグラフに掲載され、さっそく姫路赤十字病院から「うらやましい」/「私たちもおしるこを食べたい」などの寄せ書きをもらった。(その頃の内地は、衣食品全てが配給で、甘いものを口にすることはほとんどできなかったから)

最前線とはいいながら、空襲のあいまを患者も隊員もまた他の部隊の人々も一緒になってつとめて明るく楽しくいたわりあう生活は、三カ年間で一番楽しい日々だった。何千万という人々が互いに助け合い、弱い者を大切にいたわり、心を一つに各自の本分をつくしたラバウル…このようにうるわしい共同体は他に類がないだろう。第376救護班も最後までラバウルに残れば、班員そろって内地に戻れたのであろうが…。 

神ならぬ身の知る由(よし)もなく、フィリピンに後退してドン底にあるとき精神の支えがラバウルでの思い出であった。

 

9月頃から空襲が激しさを増した。

10月頃から懸命に壕堀が続けられ、私たちの勤務も地上から壕内に変わった。この頃、敵上陸の報が伝えられ、まもなく第8方面軍司令部から「軍人以外は全員後退するように」との命令が下り、10月20日にはココポ第103兵站病院派遣の関口婦長以下11名が復帰した。

11月5日の大空襲のときは、ブーゲンビル島沖通過という情報と同時に、敵の大編隊がラバウル上空に現れた。軽症患者は病棟日誌などの非常持出品と私たちの着替え入れ袋などをさげて壕に退避してくれたが、網戸の中の隔離患者数名を床下までも避難させる余裕がなく、私はそこで覚悟を決めた。伊藤伊之助という新聞記者で少々頭のおかしくなっている重症患者のそばに、赤痢患者用のマットを頭からかぶって座った。動くことのできない伍長さんが、「看護婦さん逃げて下さい。私たちはどうなっても仕方がないが、看護婦さんに倒れられたら…」と声をつまらせて退避を勧める。だが『どうしてこの人たちを残して逃げられよう』退避を勧められれば勧められるほど気持ちが落ち着き、「いいのよ。何も言わないことと思わないこと。こうしてじっと我慢しましょうね。」と答えた。ついにその伍長は声を出して泣き出す。バラックの貧弱なドアは爆風で音を立てる。何回となく病棟の上で旋回する音。隣の兵器廠(へいきしょう:兵器の管理倉庫)の機関砲は気が狂ったように撃っている。『かえって攻撃目標にされるのではないか』と不安。最初は「恐い、恐い」と言う伊藤さんの上に覆いかぶさるようにマットをかぶっていたが、「看護婦さんがいくらそばにいても爆弾が落ちたらしまいや!」と叫びながら動けぬ体の伊藤さんが狂騒状態になりだし、私は思わずピシャリと頬を叩く。半分いかれている患者と知りながらも…、看護婦がそばにいても何もならないことがよく分かっているだけに…、本当のことを言われて無性に情けなく、伊之助さんを見ていて涙が出そうになり、ただただ早く敵機が行くことを念ずるばかり。このとき、いつものように機銃掃射があればおしまいだっただろうが、幸いなことに私の病棟にはなかった。ただ、その伊之助さんは半月後に亡くなった。

私たちは当然のことをしただけだったが、どの病棟の看護婦もほとんどが重病患者に付き添って病棟に居残ったそうで、隊長から感謝状をいただいた。

11月26日には、病院船ブエノスアイレス丸が日赤の看護婦と患者を乗せてフイリッピンに向けて出航することになったが、その前日に私たち兵庫班だけがラバウルに居残るように命令が変更された。

私の病室からも何人かの内地還送患者を送り出した。そのブエノスアイレス丸がラバウル港入り口キャビエングの横で撃沈されたと知らされたのは11月27日だった。乗船して行った懐かしい顔が浮かんで胸が痛んだ。彼らの中の数人が1週間の漂流の末にやっとラバウル港に戻って来たが、看護婦さんたちは重油と塩水のために真っ黒に日焼けし、何ともいいようのない気の毒な有様で、一週間前に別れた人とは思えない変わりようだった。早速、私たちの衣服を分けあい、ココポの103兵站病院に収容された患者さんにはフンドシなどの慰問袋を作って送った。

12月12日の大空襲では昼食の最中に警報が出た。珍しくうどんの日で、急いで立ち食いをしていると煙火薬砲激しい音。『いつもと違う』と思って外に飛び出すと、官邸山の谷間からアメリカの編隊が見えた。とっさに、そのまま病舎に走った。途中、四つ角で「どこに行くのか!」と、士官の必死の声。「病舎」と叫んで一目散に病舎に駆けこむと、空襲に慣れた患者はのんきそうにうどんを食べている最中。私は大声で「壕に入る間がない。早く病室の床下に、早く」と叫んで回った。そして歩けない人を担架に乗せ、前だけを持って一人でひきずって、床下に次々と引きずり込んだ。これが最初の昼間の大空襲だった。

よくもこんな力があったものだと後になって皆の笑い話にされたが、このとき一名の犠牲者も出さなかったのは幸だった。

このときの港の攻撃は特にひどかったらしく、多くの軍艦が黒々と煙を吐いている様子がココポの高台から見えた。夜の攻撃目標になるのをさけるために友軍の軍艦から炎上する艦を撃つ砲声が痛ましく胸をつらぬいた。

空襲が激しくなればなるほど、私たちは緊密の度を加え、衛生兵,患者,看護婦がお互いに信頼し助け合いいたわりあうようになっていた。

 

この頃からよく病院に、16~17才の少年航空兵が私たちを「姉さん」と呼んで慕って来るようになった。“り号病棟”に結核で入院した馬場君には内地還送の命令が出たのだが、「絶対に帰らない」と泣いて怒っていた。

少年航空兵たちは「明日はいよいよ出発します。油は大切だから片道分しか入れて行きません。飛行機は一人乗りで少々淋しいです。お姉さん、どんな布でもよろしいから小さな人形を作って下さい。」と、よく訪ねて来たものだ。夜一生懸命に手作りした人形を手渡すときのしめつけられる胸の痛みは忘れることができない。私と特に親しくしていた山野高明ちゃんにも、ありあわせの布で黒いはかまを着けた小坊主さんを作って渡した。その翌日、彼は私の病棟の上を旋回しながら手をふって南海の空に飛び去って行った。


5)さらばラバウル

12月30日、最後の船である吉野丸でラバウルともお別れする日。後ろ髪を引かれる思い。浜は一杯の人で、兵隊さんたちも皆、涙、、、

残る者,出航する者、ともに明日の命は知れない。

「いよいよ野郎どもだけか。俺たち一生懸命頑張っていると内地に伝えて下さいよ。」と。送る者も送られる者も互いに見えなくなるまで手を振った。

ふとその時、人の気配を感じて振り向くと、森下曹長の顔が見えた。先のブエノスアイレス丸に私の病棟から送った患者さんの一人であり、私の病棟の室長でもあった方で、漂流中、実に立派にボートの中で指揮をされたと聞き『この人なればこそ』と、普段の曹長を知っている者はうなずいたものだった。私たちは乗船と同時に病院船勤務となった。船に弱い私には、揺れる船倉での飯あげ作業が何より辛いものだった。真っ青な顔でご飯をついでいると森下さんが代わってくださったものだ。甲板で“ガ島悲歌”を習い、皆で口ずさんだものだ。森下さんは比島(フィリピン)に上陸後、バギオの陸軍病院に行かれたそうだ。


6)マニラ仮宿舎

昭和19年1月9日にマニラに入港して、第12陸軍病院教育講堂を仮の宿舎として夢のような生活が始まった。カロマタという馬車に乗って城内に行ったり、ケソン病院に兵庫班を慰問したり、プールで水泳の練習をしたりして過ごした。パンが1個5円もして値段の高さにおどろいた。甘いものに飢えていたのでぜんざいを腹いっぱいになるまで食べた。思い出はたくさんあるが、最も印象深かったのは、マニラの兵隊は一等兵でもきれいな服を着て舗装道路をネギを片手に鶏をさげて歩いているということだ。ラバウルでは将校もスコップを手に兵隊と一緒に働いていたので、なんだか不思議な気がしていらいらした。前線とは土地条件によって差があるということを知ったのはもっと後のことだ。

1月30日:マニラ港から輸送船湖北丸に乗り込んだ。これまでの船が全部1万トン級であったのに比べてまことに小さな輸送船。私と斉藤とは蒸し暑い船倉を抜け出して甲板の煙突のかげで寝た。内海航路で波はおだやかだったが、15日もかかってやっと目的地ダバオに着いた。


7)ダバオ第13陸軍病院

ダバオといえば日本からの移民の人がマニラ麻を多く作っているところ。

街頭には屋台店が並び、はだしの原住民女性がのんびりと売っている小さな町だが、ここもマニラと同様のインフレだった。

ダバオ第13陸軍病院はこれまでの野戦病院の中で一番設備が整い、外科には熊本の陸軍看護婦が10名ほど勤務していた。ラバウルの最前線と比べて何か物足りなさを感じながらも一生懸命に勤務した。

 

将校内科に勤務するようになったある日、飛行場設営隊の少尉さんが血を吐いて入院してきた。付き添い当番は熊本出身の兵隊さんが一人だけ。「元気なときは先頭に立って飛行場の設営に当たったのに、やっと飛行場が出来上がったときに喀血(かっけつ)して、肺病と分かると誰一人として隊から見舞いに来ないんです。」と憮然(ぶぜん)として話しかけてきたが、何も答えられなかった。

 

福島出身の深沢少尉は少しでも動くとゴボッと喀血するので胸に重たい砂袋を置いて天井をにらんでいるだけだった。ちょうど比島に秋草の咲く頃で、キキョウやススキなどをお部屋に飾ってさしあげた、物を言えば咳…,咳をすれば喀血という重症で、言葉を交わせるようになったのは相当日数が経ってからのことだった。

「自分は文学に進みたかったが親の勧めで拓大を卒業して結婚し一児を得たが、今はその妻も子も亡くした」とのこと。部隊から見離され、身動きできず、煩悶(はんもん)の時に苛立(いらだ)つこともあったが、「少尉殿、やんちゃを言って当番さんを困らせてはいけません。」と言うと、目をうるませて物静かに影を落とす方だった。内地還送が決まると、ご自分のノートに「貴女は従軍したというだけで結構ではないのか。貴女は本当にまじめすぎる、この殺ばつとした戦場においても自分を大切にして欲しい」といった内容を感情を押し殺して書きつづって下さった。

後日、内地還送の任務に当たった兵隊から「深沢少尉が自棄をおこして、空襲だというのに甲板に上がっていく、止めても聞かず、全く困った」と話してくれた。ご自分を大切にできずに、おそらく寂しく奥さんやお子さんのそばにゆかれたのだろう。

 

ほどなく、私たちも軍用トラックに分乗してダバオを離れた。その頃から負け戦の悲哀を感じるようになった。夜はヘッドライトを点けられずに停車して道ばたの泥水でご飯を炊いたり、モロ族の攻撃を恐れて蚊に刺されながらトラックの下で小さくなって寝たりと、逃げまどう15日間ほどでガヤンに着いた。

ガヤンも空襲の連続で壕らしいものは何一つなく、私たちが勤務できる場所ではなかった。ヤシ畑にやっと患者を連れて逃げれば、そこが攻撃されて多くの犠牲者を出すというしまつで手のほどこしようがなかった。『フィリピンの軍隊は何をしているのか…』とラバウルとはあまりにもかけ離れた軍人の気風を腹立たしく思うばかりだった。

いよいよ空襲が激しく患者の収容も不能となり、ミサミス州グサに逃避した。グサでの任務は衛生材料の再製と保管,ヤシ油の製造だった。グサには、かつて日本軍全盛期にフィリピンのゲリラが使用したらしい大きな横穴があり、山の中腹にはトンネルが掘ってあった。この頃から敵の飛行機が日に何回も頭上を旋回してはレイテ港攻撃が繰り返された。空襲を避けて横穴から敵機をにらみすえるばかりで、ついに敵が上陸してきた。


補足説明:昭和19(1944)年10月24日に「レイテ沖海戦」で戦艦武蔵が沈没


8)マライバライ第4野戦病院

昭和20年1月21日:私たちは第30師団第4野戦病院への派遣が命じられて、その夜のうちに発つことになった。何かに追われる気持ちで軍用トラックにゆられていると、無性に母が恋しくなり涙が流れた。ダバオから来るときには何とも感じなかった道が、夜中だというのにざわついて不気味だった。黒い霧におしつつまれるような不安におののきながら高原のマライバライ第4野戦病院に到着したのは夜明け近くだった。

 

病舎も宿舎も民家だったところで、50mおきくらいに点在した四つの病舎に分散して勤務することになった。私の病舎の前にはカキの実に似た果物が真っ赤に熟れていた。内地からの補給がとだえたフィリピン島の食糧事情は日に日に悪化していた。おかずはタンコンと言う野菜のすまし汁で、主食はトウモロコシ8割に米2割程度を混ぜたものでゴロゴロしていた。この頃よく原住民からタピオカで作った団子を買って食べた。ある日、同級生の筒泉が衣類と引き換えに原住民から鶏を2羽もらって来て「休日に料理して食べさせてあげる」と張り切っていた。私たちは、その素晴らしい思いつきに喜んで、乏しい食事をさいて鶏のえさにしたのだが…、ある朝「鶏がおらないよ。」という声におどろいてとび起きた。後で第4病棟の庶務(しょむ)の裏口に散乱している羽毛を見つけたときには二度びっくりした。

 

原住民から「水牛が盗まれないように、水牛の首につなを巻き、そのつなのはじを手に巻いて、時々つなを引いて手ごたえを確かめながら寝ていたが、朝起きたら、牛の代わりに大きな石につながれていた。水牛を失ってこの先どうすればいいか分からない…」という話を聞いて同情していたが、まさか、同じ配属部隊の日本兵の食糧にされていたとは想像もできないことで、何ともやりきれない気持ちになった。私たち下級生は庶務主任のM中尉に談判に行ったが、M中尉はニタリニタリと笑いながら知らぬ存ぜぬの一点張りで、結局、原住民と同様に泣き寝入りするしか仕方なかった。この部隊は全てがこの調子で、空襲が激しくなると病院には看護婦だけを残して隊長以下全員が3kmも4kmも離れた奥地に書類だけを持って朝早くから夕暮れまで避難していた。


9)リポナに撤退

敵上陸進撃中という情報で私たちは患者をともなってブギドノ州リポナに避難し、二~三日、衛生材料の整備や隊貨の整理に当たっていた。しかし、敵がミンダナオ島の各地に上陸して進撃を開始すると、我軍はジャングル内に退避することになった。動ける患者には所属部隊に帰属命令が出され、米1升とモミ1升と乾パン2袋が支給された。そして、動けない患者はそのまま…、ということになった。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずか)しめを受けるよりも…」と教育されていたので、捕虜になったときのことを考えると背筋に冷や水を浴びせられたような異様な旋律を覚えたが、軍の命令は絶対であるから服従しなければならない。

せめてものおわびのつもりで、配給された乾パンを動けない患者に残して身辺整理にかかった。

 

マニラ滞在の1ヶ月間に『内地に帰るときのお土産に』とささやかな買い物をしていたが、全部捨てた。黒い外被(がいひ:機器のカバー)で円筒形のリュックを作り、米と飯盒(はんごう)と二~三の着替えとセロハンで幾重にも包んだマッチ,チリ紙,タオル,石鹸などを入れ、水筒には塩をつめた。それに肌身離さぬ出征以来のお守り…、とまことに軽装になり、皆に「よく思い切ったわねぇ」とあきれられた。

 

ジャングルの入り口を目指しての夜間行軍(こうぐん)。不要になった軍貨(軍票)が焼かれ夜空をこがすのがあわれ。

時おり自動車で通過する部隊も見えるが、お互いの編上げ靴の響きにせきたてられるように黙々と列をなして進む。すぐ近くに敵が迫っている感じで私たちも必死に歩く。

カッカッというおびただしい靴音だけが頭いっぱいにこびりついて何も他に考える余裕などない。


補足説明:昭和20(1945)年4月7日に坊ノ岬沖海戦で戦艦大和が沈没


10)ジャングルの逃避行

昭和20年5月1日:ほのぼのと夜のしらむ頃、地名は判らないが両側の丘のように見える平らかな芝山の続きにうっそうと茂るジャングルの見える所まで到達した。『こんな大勢終結しているところが空襲されればどうなることか』と不安に思いながらもジャングルの入り口に立って少しほっとした。

起伏の激しい土民道を渡りながら、初めの三回ほどは隊貨の運搬に往復した。

米一升とモミ一升にはまだ手をつけず、途中で隊と土民が物々交換をしたトウモロコシを焼いたり、油で炒めたりして食べた。

 

行くあての目標もなく数日歩くうちに、山砲のとどろく音や機銃掃射の音がここかしこに響くようになった。

ある川原で宿営したとき、私たちは早速、下着の洗濯にとりかかった。すると、にぶい爆音とともにグライダーのような飛行機が頭上に来た。観測機とも知らずに『あんなちゃちな飛行機に爆弾を積んでいるはずはない』と、のんきに洗濯を続けていると、ヒューと風を切る音とともに10mほど先の川原で迫撃砲が炸裂し、続けて弾がとんできた。私は川に飛び込み死角に入るように岩陰に身を潜めた。関口婦長と松田書記も私のそばに身を伏せた。この衝撃で一時は耳が遠くなった。部隊からは多くの負傷者が出たが、われわれ救護班は全員無事だった。その頃から部隊は統一行動がとれなくなり、女が足手まとい扱いされ始めた。

そしてついに部隊の現地解散が言い渡されてしまった。『こんなことってあるものか。状況のよいときは働けるだけ働かしておいて、今さらほっぽりだすなんて…』と、泣こうにも泣けない気持ちだったが、とにかく、兵隊の歩いた道を進むよりなかった。

22名が団結して落伍者を出すまいと気を配った。ジャングルに入ってからは日付の見当が全然つかなくなっていた。夜になって宿営地にたどり着いては木の枝を利用して天幕を張り、その下の雑草を払って平らにし、枯れ木を集めて塩汁を作り、そして少しずつの米で粥(かゆ)を炊いて夕食にした。このような一日に一回だけの食事も、2ヶ月ほどで米がなくなり、あとは水筒のキャップ1杯のモミをはじけさせて食べた。それが足りずに生のモミを口に入れては、次の日にモミが肛門に詰まって困った。モミも1ヶ月ほどでなくなった。

 

兵隊はゲリラが開拓した畑に出会うと2日ほど宿営して休息していたので、現地解散が言い渡された後の3ヶ月ほどは、兵隊の跡を根気強く尋ねては、数日遅れで追いついたものだった。ただ、われわれにはその休息がなく、毎日毎日たとえ少しでも歩いた。我々がやっとゲリラの畑にたどりついても残っているのは芋の葉ていど…。それでもあればよいほうで、たいていは裸の山畑。それでも懸命に芋を探した。こんな中でよく芋を探し当てると有名になったのが筒泉だった。「尾崎、貴女は芋を探し出さないからみんなに悪いやろう。これをあげるから自分で掘ったと言ってみんなに出すんやで。」と言ってはそっと芋を手渡してくれたものだった。その友情がありがたく、涙が出て仕方なかった。

 

第一渡河点という合流地点を渡るときには、その川幅の広さと深さに足がすくんだ。流れは美しく、ところどころに黒い大きな岩が頭を出していた。そこに太いツルとツルがつながれて向こう岸まで二本はられていた。私たちはそのツルにつかまって順番に河に飛び込んだ。背中のリュックがプカプカと浮き上がる。足を川の流れにまかせながらツルを頼りにたぐる。やっとの思いで向こう岸にたどり着く。後には救護班で唯一の男性である松田書記と兵隊たち十名ほど…、となったとき、突然の増水。この奥でスコールでもあったのだろうか。濁流が恐ろしい音をたてて押し寄せて、松田書記をツルとともにのみこむ。私達は声を限りに「書記殿、書記殿」と叫ぶ。関口婦長も石岡婦長も恐ろしいまでに張り詰めた顔で河の面をにらんでいた。松田書記は土佐の海で鍛えた海の男だったが、自然の猛威の前ではなす術もなくリュックの下に頭を沈めたままで私達の目の前を流されて行った。ついに私達は女ばかりの集団になった。

 

この頃すでに兵隊のあいだでは行き倒れが多数ではじめていた。「看護婦さんでも歩いているのに、なんで歩けないのだろう」と、栄養失調で全身ふくれあがった兵隊が気の根っこでつぶやいていたものだった。それを聞くと、気の毒というより、明日の我が身を見るようで気がめいった。

 

すでに我々も極度の栄養失調で、まず一番年長の関口婦長が下痢を始めた。足はポンポンに腫れ上がってまぶたは垂れ下がり、すでに生きた人の顔ではなかった。救護班は一日のうちに1kmも歩けなくなっていて、本隊からかなり遅れているようだったが、それでも歩くのをやめなかった。周囲に見かける兵隊は明日のわからない落伍者ばかりで心細かったが、草の倒れている方向や足跡をたどりながら一歩でも内地に近づこうという必死の執念が前進させた。宿営地を決めると水を沸かして食べられそうな草や木の根を掘った。水のたまっているところではおたまじゃくしや蛙を、川を渡るときには岩肌に付いたニラという貝を、またはバッタを…と、食べられそうなものは全部食べた。前に通った兵隊が手榴弾で獲った残りですでに綿毛のようなカビにおおわれた20cmほどの川魚を見捨てられずに、次の宿営地まで筒泉が持って行き黒焦げに焼いて食べたこともあった。関口婦長には同級生の今出が当番についてみんなでいたわりながらボツボツ行軍していたのだが、ついに力尽きて「必ずあなたたちを見守ってあげるわね」という言葉を残してこの世を去ってゆかれた。すでに私たちには墓穴を掘る力はなく、その宿営地のかたわらで遺体に木の葉をかぶせておとむらいをした。

 

これから先どうなるか見当もつかない中で「この川(ブツアン川)を下って行けば平野に出られる。」と若手二人(鍋島と尾崎)で希望を語り合っているところへ、10歳ほど年長の山本一子さんがいらして「みんな、私のことを足手まといだと思っていない?」と思いつめたように言われた。山本さんは真面目で元気な室長さんとして皆の尊敬を集めていた人。「だれがそんなこと言ったりするもんですか。元気を出してみなで歩かんと、山本さんらしくないですよ。」と、二人でいろいろと励ましたのだが、ポンポンに腫れた山本さんの体を見ていると、慰めの言葉が上滑りな感じがした。『10年の歳の開きがこうまでも体力の差を生むものなのか』と、気の毒になると同時に『これがいつまで続くかわからない行軍の果ての自分自身の姿』と悲しくなった。



二つの班に分かれて

翌日、石岡婦長が「先発隊と後発隊に別れましょう。元気な人が先発して宿営地を探して天幕を張ったり薪(まき:たき火にする小枝)を集めたりしておきましょう。食糧は後発隊が持って行きますからみんな置いていくように。」と言い出し、賛成も反対もないまま、そのように行動することになった。

出発直前、山本さんのリュックときちんとそろえられた靴に気づき、前日の山本さんを知っている鍋島と私は必死に大声を上げて呼んでみたが返事がない。とにかく後発隊で山本さんを探すことになり、二つの班に分かれた。


11)先発隊12名(尾崎)の記録

「食糧は後発隊が持って行きます」という言葉に、私も水筒に入れた塩を婦長の前に持って行った。班の食糧と言っても、一まとめにして小さな風呂敷包みが一つだった。夕方にはまた一緒になれることを信じて、赤坂さんを頭に私達12名は何の不安もなく全てを後発に託した。しかし、ジャングルはそんなに甘くはなかった。一つの曲がり角を違えても終わりである。

行っても行ってもあてどのない湿地帯が続く。12人は日に何度か川を渡りながら毎日毎日歩いた。下半身はいつもずぶ濡れである。排尿は川を渡るときにそのまま流していた。

どうせ死ぬのならと平野に活路を求めるように引き返してくる兵隊と出合うこともあったが、私達にその勇気はなかった。

 

9月頃、極度の栄養失調でどこの隊もほとんで全滅しているようで兵隊と会うこともほとんどなくなった。白骨化した軍服姿がゴロゴロと転がっているだけである。無理な行軍をしないわれわれはそれでも9月の初めまで12名全員がそろっていたが、一日に100mほど進むのがやっとという体力になっていた。その頃から最年長の伊勢田さんの様子が変になっていた。

ある日、偶然なことからまだ誰にも荒らされていないマイス(とうもろこし)畑を見つけた。班が横道にそれたという不安はあったが、斜面に植えられたとうもろこしを見て、手を取り合って泣いた。そしてむしゃぶりついて生のままかじった。伊勢田さんが「毛が茶色い程よく熟れてるんや」ポツリポツリ言いながら嬉しそうにかじっておられた姿が今でも目に浮かぶ。私たちはこのゲリラの畑に長くいた気がする。小指くらいのものまで採って芯まで茹でて食べた。出発の時には“これこそ天佑神助(てんゆうしんじょ:神の助け”と、とうもろこしの茎まで折って何本も何本もリュックに詰めた。サトウキビのように茎の汁をしゃぶりながらいつ果てるか分からない旅をまた始めた。

私は次第に視力が乏しくなっていった。もともと弱視・乱視・近視と悪条件の揃っている目である。視力の衰えに不思議はないが、私は視力の衰えが極度に恐ろしかった。眼鏡だけが頼りなのである。眼鏡をかけた屍体を見るとそのまま通り過ぎることはできなかった。分厚そうなレンズであれば外して入れた。リュックの中には眼鏡がゴロゴロしていた。

9月に入った頃から屍(しかばね)の側にころがっている飯盒(はんごう)をのぞくと人間の皮膚らしいものがあったりして、新しい屍はほとんど大腿筋(だいたいきん:ふとももの肉)や臀筋(でんきん:おしりの肉)が切り取られていた。私達はたまに兵隊の声を聞くと木の蔭に身を隠した。人間が恐ろしかった。

誰もかれも内地に帰りたいばっかりに動かない体にムチ打ちながら歩いている。歩いていることだけがただ一つの救いのように…。

9月中旬だったと思う。川原にゲリラの小屋があった。その小屋は2段になっていて上の段に軍医部の曹長と少尉と大尉と上等兵の4人が宿営していた。軍医部と知って我々も安心してその下手に宿営することにした。川から水を汲んで夕餉(ゆうげ)の支度(したく)をしていると、上から兵隊が「オイ看護婦さん、俺達山犬に出合って殺したんだがその肉をおすそ分けしようか?」と言う。その声に飛びつきそうになったが、誰かが「ねチョット、あの兵隊さんたちの体力で山犬が獲れると思って?きっと人間よ。山犬など見かけたことない…」と言った。“私達は例え全員が餓死(がし:飢え死に)しても人の肉を食べるようなことだけはすまいね”と話し合っていた。誰もがひもじく『あるものはなんでも食べたい』と思う中で、自分自身に勝つためにも戦わなければならなかった。「せっかくですけど、お肉は結構です」と断った。どんどん水を沸かす者,木の根を掘る者,蛙を探す者,みんな夢中でやった。

我々はその軍医部の兵隊達と行動を共にすることにした。軍医大尉とその当番,そして軍医少尉と軍医部下士官である。状況のよいときこの大尉を一~二度見かけたことがあり、なかなか気品のある容貌の美しい人であった。その大尉の名前は忘れた。少尉はTと言って歯科の軍医だった。この少尉は少々頭がおかしくなっていたのか無類のお人よしであった。とにかく女ばかりの行軍に4人の男性が加わって心強くなった。

しかし、この頃から上級生が次々に極度の栄養失調になった。伊勢田さんに続いて龍古さんも神経に異常がきていた。ある日のスコールの後、龍古さんがガタガタと震えだした。だれもが全身びしょ濡れである。着替えもない。だが、見かねて龍古さんのリュックをのぞくと、マニラかダバオにいたときに日本から送られてきたのだろう白い毛糸編みのシュミーズのようなものが入っていた。それと着替えさせると龍古さんは笑顔で「これね、お母さんが編んだのよ」とつまんだり引っ張ったりして幼児のように無心に喜んだ。その姿に私は涙が出そうになった。班の中で一番おとなしくつつましく女らしかった龍古さんがこんなことになって、よくここまで耐えてこれたものだと思うと上級生ではあるが本当にいじらしかった。「すぐ乾きますからね…」と、濡れたのを上に着せかけてまた歩いた。

 

軍医部と行動を共にして半月ほど経った頃。ある朝起きてみたら、大尉の当番だった上等兵が死んでいた。木の枝を数本折って上にかぶせて出発した。死に馴れきっていた。明日は我が身のことかもしれない。死をもはや考えてもみなかったし、死んだ人に同情も薄かった。不思議な心理である。

その夜のこと、宿営地に着くと大尉がが少尉に何か言っている。どこかに行こうと誘っているのはわかるが、はっきりと聞き取れない。曹長は枯木を集めていた。私はとっさに気がまわった。『死んだ当番兵のところへ引き返そうと言っているのではあるまいか』と。1kmもないので男の足ならわけもないところだ。そうだと直感して私はわざと大きな声で、「少尉殿、塩を持っていませんか。私達のはもうすんでしまったのです」と叫んだ。少尉さんは「少しならありますよ」と、側へ寄ってきた。このときとばかり少々おかしくなった少尉さんに、押しころした声で「大尉さんと一緒に行くと承知しないわよ」ときめつけた。私達はそのとき、先に通った兵隊が捨てて行った大きなヘビの皮を持っていた。「ヘビの皮に塩をつけて焼いて、今晩、少尉さんだけに食べさせてあげるから絶対大尉と一緒に行っては駄目よ。わかったわね」と言うと、少尉さんは黙って力なくうなずいた。その夜、火をたいている側に寄って、年より老けた顔で我々を頼りきったような無気力さで一心に塩焼きのヘビの皮を食べておられた少尉の顔が、目をつむれば今でもありありと浮かぶ。夜中になると大尉は一人で出て行った。翌日大尉の帰りを待って出発したのだが、何しに出かけて行ったのか、誰もきかなかった。何かしらこの大尉が底気味悪く不安であった。この頃毎日のように激しいスコールが我々を見舞った。河の岸に沿って歩いて行けば必ず平野に達するという自然の理に従って何回か河を渡りながら前進するのである。

 

龍古さん、小林さんがほとんど歩けないところまできていた。10mほど歩いては小休止、また10m歩いては休止というような状態だった。小休止のとき龍古さんが突然ナイフを出して自害しようとした。私達が必死にナイフを取り上げようとすると、龍古さんも力を出しきって取り返しにくる。ナイフを取り上げようとする者、取り返そうとする者が必死にまつわっているうちに龍古さんは精根つきて泣き出してしまった。私は小林さんと龍古さんのリュックを少しでも軽くしようと、中身を捨てることを思いついた。なぜもう少し早くこのことに気づかなかったのかと悔やまれた。「重いから捨てましょうね」と私が言うと、二人ともうつろな顔でいいとも悪いとも言わずぼんやりしていた。龍古さんは使うこともない大きな注射器のようなものまでリュックに入れていた。本当に入用なものを二~三選んでリュックに入れた。次に小林さんのにとりかかった。人の物ではあるが、不要の持ち物がこの人を苦しめ命を縮めるのだと信じている私は思い切ってポイポイ捨てていった。家を出るときに親が彼女に持たせたという懐剣(かいけん)だけは入れておいた。大事そうにハンカチに包んだ小さな箱が出てきた。小林さんが不意に「それ置いてね」と小声でつぶやくように言われた。振ってみるとカタカタという音がする。私はハッとした。化粧道具が入っていたのである。いつもの私なら「こんなものをこんなときに」と言いかねないのだが、このときばかりはなぜか強く胸にこたえるものがあった。「そうね、これ、ここに置いておきましょうね」とリュックに戻した。大尉達は一足先に出発していた。「これで軽くなたからね。私達ちょっと先に行って宿営地を作っておくから晩までにゆっくり来なさいね。行っても10mか20mだから」と励まして先に出発した。

日が暮れるまでに宿営地の準備がおわったが、二人はなかなか来なかった。私と筒泉はまたもとに引き返した。荷物を捨てた場所から5mほど下った小川で見たものは…小川で末期(まつご)の水を飲んだのであろうか、美しく化粧した小林さんがうつむいて死んでいた。龍古さんも元の場所で眠るように死んでいた。龍古さんは自分の死期を知って一刻も早く自分の手で命を縮めることにより、その恐ろしさから逃避したかったのだと思う。また小林さんは水を欲しがっていたが、私達がアメーバ赤痢にかかればおしまいだと与えなかったので、その欲しい水を心ゆくまで飲み最後の化粧をしたのだと思う。感極まって涙がとめどなく流れた。薄暗くなるジャングルで筒泉と私は木の枝を折って屍にかぶせてその場を去った。

 

12名が10名になった。その悲しさは何ともいえない。特にこの人たちのクラスの奥田さん、片岡さんが力を落としてガックリしおれておられるのが目立った。伊勢田さんは相変わらず頭がボンヤリしていた。また赤坂さんは胸部疾患があるのであろう。胸を押さえては軽い咳を続けて苦しそうであった。小林さんのリュックから親御さんにと取り出してきた懐剣を片岡さんに渡した。その片岡さんも栄養失調で全身が丸々と腫れていた。「重たいから私が持ちましょう」と言ったが「小林の形見だから…」と言ってきかなかったが仕方がない。

 

この頃から夜誰もお小用に立たないのに気づいた。私は自分だけの秘密として恥ずかしく思っていたが、皆も起きるのも大儀なほど疲労が重なって、寝たままだとお尻の下が暖かくなって便利だとのこと。川を渡る行軍続きで下半身が乾く暇もないままで、夜中には冷えてお小用に行きたくなるものだが、体力がつきるとそれも億劫(おっくう)になるものである。全くの淡水ばかり飲んでいるのだからお小水も無臭で、皆もこうしてお尻の暖をとったわけである。

 

小林さんと龍古さんが亡くなって十日は経っていただろうか。その日は岩肌のあらわれた崖のような場所を滑りながらやっと日暮れに川原に出て宿営した。たとえ100mにしても難コースであった。私達は力つきて何をするのも億劫で、やっと名ばかりのテントを川原に張るとそこそこに腰を下ろした。そのとき誰かが伊勢田さんが見えないと言い出した。どこでどう迷ったのであろうか。この日暮れに探しに行く気力もない。一人になった伊勢田さんがどうしているかと思うと探しに戻らねばと思うのだが体が動かなかった。どうせこの体力では私達もあと幾日生きられるか分からないのに…。ここでこのまま水を沸かして飲みながら生きられるまで…。私達は全員「もう歩かん」と言った。大尉がそんなことを言っては困るということを言っていたが誰も耳をかさなかった。男の人には気の毒だが行きたければ軍医部の人だけで行ってもらうより仕方ないと思った。そのとき、川原の向うに「そこにいるのは誰か」と大声で呼ぶ者がある。大半は「黙っとろうよ」とささやいたが、奥西が「私達は第四野戦の看護婦です」と答えた。

「俺達はこの奥5kmの地点にゲリラの田畑を確保して永久自活を決意している。今日は地理偵察に出てきたのだが、これから先はいよいよ湿地帯で身動きが取れなくなる。行軍を続けると死んでしまぞ。君達は何名だ」

「9名ですが、外に軍医部の人が3名おられます」

「俺達は工兵連隊と輜重(しちょう)連隊の生き残りだが隊長に話しておくから来れば何とかなるだろう」と言った。

私達の沈んだ気持ちは吹き飛んだ。それにもまして大尉は喜び「輜重連隊の隊長も工兵連隊の隊長も友人である」と得意気で、私達に対してにわかに命令口調になり、自分は動かずに衰弱しきっている私達を酷使しだした。

翌日は前夜の雨で川は増水していた。「出発を延期しよう」と言ったが大尉は聞かない。「案外浅いとしても流水で川底は見えず、みんな足が弱ってフラフラしているので無理です」と主張した。が大尉は恐ろしい顔で「一日もこんなところでぐずぐずしておれん。それだけ死者を出すばかりだ」と聞き入れず、黙るしかなかった。

昨日は足首がつかる程度の深さだったわずか10mほどの川幅。今日も浅そうだが流れが速い。出発の用意をして大尉が一番に川に入った。ついで私,贄田,筒泉,牧本,山中の順に入った。私は用心深く足を滑らせて前進した。ツエを頼りに、ともすれば流れにさらわれそうになる足をひきずりながら、絶対川底から足を浮かさず必死の思いで対岸にたどりついた。大尉は岸から手を差しのべて「偉い偉い」と言ってくれたが無性に腹立たしかった。川の深さはスネのちょっと上ぐらいだが流れが急であった。私は「下を見ないように。足を宙に浮かさず底を滑らすように小刻みに」と、大声で何回も注意をした。山中に続いて牧本が渡っているとき、どうしたはずみか牧本が足を滑らせた。一番体力もあり背も高く四国の人間で泳ぎも確かなはずだが、さぁっと流された。牧本はリュックを浮き袋代わりに沈ませて、リュックの上にのっかかるように体をあずけて手で水をかきながらこちら岸にたどりついた。が、それに気を奪われたはずみに前後していた山中と片岡さんが流された。あっという間の出来事である。山中は牧本と同じ形で上を向いたまま、片岡さんは顔を下に流されて行った。心配していたとおりで頭の中が空っぽになったような寂しさに襲われた。赤坂さんが必死でこちら岸にたどりついた。手を差しのべると同時に涙がぽろぽろこぼれた。最後に奥田さんが川の三分の一ぐらいまで来て、何とも言えない情けない表情で「助けてー」と言った。しかし皆命がけで渡って来たのである。引き返す勇気の残っている者は一人もいなかった。今から思えばスネぐらいの深さであったが、極度の栄養失調に身の自由を失い、わずか10cmの階段でもはって上がる私達にとって引き返すことは死を意味した。「弱気を出したらいけない、水面を見ないで、足を滑らさないように」など口々に叫びながら何か投げるようなものはないかと岸辺をうろうろ探してみたが適当なものが見つからない。いらいら歩き回っていると、もう一度「助けてぇ」と言う声を残してフラフラ倒れたかと思うとどんどん流されだした。大尉は冷ややかに「仕方がない、出発しよう」と言った。その冷酷さに悲しい怒りをこめて「私ども6名はどうあろうとも岸に沿うて1kmでも2kmでも流れた人を追うて行きます」と言って譲らなかった。大尉も不承不承ながら同意した。

岸に沿って100mほど下ったところで思いがけず伊勢田さんが伏して死んでいた。伊勢田さんは何をどう間違えたのか、川原に下りずに前進して一人で寂しく死んだのだ。

さらに50mほど下ったとき、ジャングルの倒木が川の中ほどまで突き出して水につかったところに、引っ掛かるように奥田さんと片岡さんと山中さんが重なって死んでいるのが見えた。目の前の光景にただ呆然(ぼうぜん)と立ちすくんだ。わずかの変化にも抵抗できないか細い命。その生命の灯はまた消えていった。このもろさは私達自身が一番知っていることだ。瞑目(めいもく)して万感(ばんかん)の想いをおさえた。

 

ゲリラの畑まで5kmと聞いた道のりを4日もかかって、細い溝のような支流をさかのぼった。途中で小さな白ヘビを見つけた泉筒がツエでめった打ちにして殺したところ、翌日になって泉筒の足,ひざ関節のちょっと下にカサができて赤くはれ上がった。かなり痛いようで泉筒は本気で「白ヘビがたたった」と言っていた。私が「たたりなんて迷信で、そんなことあるはずない」と言うのを、どうしても白ヘビのたたりだと譲らず、まるで精神的魔術にかかっているようだった。

畑を目指して歩き始めて4日目、今まで薄暗いジャングルを歩き続けてきたのに、急に青空の見える広い斜面の山すそに出た。一面の畑で嬉しかった。

その時、聞き覚えのある声が「この畑の物を無断で取ったら銃殺だぞ」と叫んだ。ハッと見上げると、同期生の今出が驚いたことに丸坊主の頭で恐怖の相で立っていた。その夜は山頂に上って宿営し今出を引き取ることにした。「もう心配ないわ、一緒になれてよかったわね」と言うと、「うん」と頭を振りながら急に泣き出した。張りつめていた神経がゆるんだのだろう。無理もないことだと私達も共に泣いた。

今出と石岡婦長は後発隊にはぐれてしまったとのことで、別れた後の様子をボツリボツリ聞くと………

石岡婦長がわずかばかりの風呂敷包みを背中につけていたばかりに、兵隊に狙い撃ちにされ命を落とした。その兵隊がそばにやってきて「ガボガホの鳥と誤って撃ってしまった。悪かった。が、他の看護婦さんたちはおそらく一人も生きて内地に帰ることはないだろう。せめて貴女一人でも内地に帰って報告しなければ何も分からなくなる」となだめたりすかしたりされた。

終日(しゅうじつ)泣き暮らした。挙句の果て、その菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために頭を丸めて、婦長を撃った兵隊と仕方なく行動を共にしてきた。………ということであった。

今出は石岡婦長の髪の毛を肌身につけて持っていた。

赤坂さんは消え入るような力ない咳をひっきりなしにしていた。

あくる日、大尉はここの隊長に会って帰ってくるなり「ここの隊長と俺はマライバライでの友人だ。いずれ畑の一部を我々に与えてくれるだろうから自活できるように計画を立てなければならない。とりあえず収穫作業をすることになるので皆一生懸命働いてくれ。はっきりしておきたいことは、収穫物は3:2、つまり俺たちが3でお前達が2、このようにしてもらいたい」と威猛高(いたけだか)である。3人と7人で3:2とは傍若無人で腹の中は煮えくり返るようだったが、その場はただハイハイと聞いておいた。『このまま大尉の思いのままに酷使されたらこの先どうなるか分からない。少尉さんには気の毒だが、とにかくこの大尉とは別れることが先決だ』と、ここの隊長に直接会うことにした。贄田と奥西と私の3人はその日の内に10mほど下の谷間に陣取っているという隊長のところに行くことを思い立ったが、大尉に知られては困る。しかも大尉は隊長のところへ行く道べりに私達を監視するように宿営していた。私達3人は谷間への道を通らずにターザンさながら、木の根や枝につかまり、つるを滑ってやっとの思いで二段式の小屋に走り寄った。「おっ、どうした」と、気のよさそうな軍曹が声をかけてくれた。(この軍曹が川原で声をかけてくれた人であり、隊長の当番を務めている人だと後で分かった)この声を聞いたとたんに私達は胸が詰まって泣き出してしまった。

久野隊長さんが「どうしたんですか」と優しく尋ねて下さった。私達は一部始終をありのままに説明した。

「軍医部の大尉がどんな変わり方をしたのか分かりました。軍医部と貴女達を離しましょう。」と久野隊長が言われた。まだそんなにお年と思えぬこの隊長さんに、物静かな父を思わせるような、久しいあいだ飢えていた人間愛を見出した。

私達は丁寧にお礼を言って、今度は普通の土民道を登って宿営地に戻った。大尉が道べりの軽天の中から一瞥(いちべつ)をくれただけで無言だったのが不気味だったが、つべこべ言われずに助かった。それから数時間後に軍曹が私たちのところに来て「貴女達は都合により、参謀部の配下にする。参謀の少佐殿がおられるからその指示に従ってくれ」と大声で伝えた。

私達が案内された畑には、参謀部の少佐とその当番と曹長の3名がいた。

畑に着いて二日も経たないうちに「私が死んだら必ず兵隊の目に触れないところに捨てて」と言い残して赤坂さんが最期を迎えた。死んだ後の身を不安にさせるほど兵隊の残虐さが焼きついていたのかと思うと激しい怒りが全身を貫いた。私達はなきがらを軽天に包んで谷深く落とし、その上に稲穂を投げて黙祷(もくとう)をささげた。黄金に波打つ陸稲を目前に死んでいった赤坂さんの心中を察するに無念でならない。

 

次の日から私達は収穫作業にとりかかった。袋を首からぶらさげ、稲穂をしごいてその中に入れる。日中の暑さを避けて朝夕の涼しい時にモミ採りをして、日中は鉄帽での脱穀作業。これで毎日(1回だけだが)玄米を炊いて食べることができるようになった。しかし、どんな事態が待っているか分からず誰もが食糧の貴重さを肝に銘じていたのでできる限り貯えることにした。マッチも残り少なくなったので、火種を灰にうめて火つぎをしていた。

 

参謀という人は、このような状況になってもまだ少佐の肩書きを忘れず、忠実な当番兵にかしずかれ、三度の食事の世話から洗濯までなにもせずに丸太小屋の主人公でおさまっていた。参謀部の兵隊と将校が幾百人いたかは知らないが、今はただの3人である。それなのにこの参謀は何を考え、当番兵と軍曹は現実をどう見ているのだろうかと私達は理解に苦しんだ。私達も参謀部の指揮下に入ることで何かしらの便宜を期待したこともあったが、全くの笑止のさただった。私達はその丸太小屋より5mほど下の小さなみぞのそばに軽天を張って宿営し作業に励んだ。

ある日のこと、モミ採りをしているとふいに贄田と筒泉の姿が見えなくなった。不思議に思って探すと、山よりの倒木の陰でかくれるように上半身裸になっている。何事かとよく見るとシラミ取りの最中である。

「まぁ、よけいいるのね。私はちっともかゆくないから大方おらないよ。」と言うと、二人は笑って、「馬鹿なことを。貴女はよく目が見えないから分からんのやろう」と言う。私も同じように裸になってそでやわきのぬい目などを分けてよく見ると、いるいる、ゾッとするほどシラミがじゅずつなぎになってビッシリとくっついていた。

ここは水に不便で一つ山を越えて、むこうの谷間に行かねば水がない。飲み水は当番を決めて交代に飯盒(はんごう)二、三杯くんでくるのが精一杯だったので、洗濯などは十日に一度もできなかった。シラミがわくのも当然だ。今まではシラミなどを苦にする余裕がなかっただけで、おそらくジャングル入りをしてすぐからシラミと一緒に歩いていたのだろう。シラミに気づく幸せを思うとおかしかった。

 

ジャングルに入って何日たったのか、全く分からなくなっていた。兵隊に何月かを聞いても誰も知らなかった。ただこの畑に来て以来、澄み切った空の日が続いた。軽天2枚の屋根の下に体を寄せ合って寝ながら眺める澄み切ったお月様に、内地の秋がひしひしと思い連なって、内地に帰りたかった。その頃、奥西がよく「尾崎、歌を歌って」と言うので“天然の美”や“故郷の空”などを歌って聞かせた。軍医部や参謀部の兵隊が耳を傾けているのを意識しながら、殺伐と死の放浪の果てに望郷の念やみ難い傷心に月を見る彼らの慰めになり、人間らしい追憶に心が清まるならと祈るような気持ちで大きな声で歌った。ここにたどり着く数日前になって、永い苦労を共にした友人がバタバタと死んでいったことがかえすがえすも口惜しくて悲しかったが、連隊で30名の生き残りと聞いて『あきらめねばならぬこと』と、心に強く言い聞かせるよりすべがなかった。

この頃、周囲のジャングル内で機銃掃射の音を耳にするようになった。畑を取り返そうと土民兵が取り囲んでいるということで、畑の一番高いところに歩哨(ほしょう:見張り)が立つことになった。

立たなくてもよいのは参謀と少尉と大尉だけで、私達も参謀の拳銃を借りて立つことになった。

 

多分十月頃だったと思う。今出さんが元気を取り戻したように思って私達も安心していたが、急に下痢(げり)を始めた。一日に十何回かの下痢が二、三日続くうちにすっかり憔悴(しょうすい)してしまった。すでにまともな薬などはなく、あるのはクレオソートぐらいだった。そのクレオソートをのませて、薄い粥(かゆ)を炊いて与えるよりしようがなかった。粘血便でアメーバー赤痢に違いなかったが、消毒薬もない今となっては軽天を1枚、溝の向こう側に張って隔離し交代に看護するより方法がなかった。溝を隔てただけで、手を差し出せば届くほどであった。気休めにすぎなかったが、大きな葉っぱを腹の上にのせてさすった。今までに何千万人がこのアメーバー赤痢で命を落としたことか…何の手当てもできず…、アメーバー赤痢はすなわち死を意味した。七、八日の患いで今出さんも世を去った。その数刻前に何か言い遺すことはないかという意味のことをそれとなく聞いた。するとはっきりした口調で「私はね、絶対に死ぬもんか。内地に帰って参事さんに報告するんや。私が報告せんと誰が報告するのや。ほかの者、みんな死んだんやで…」と言った。石岡婦長の死に直面したときに兵隊の吐いた言葉がそのまま今出に課せられて成仏(じょうぶつ:死んで仏になること)できないのではないかと愕然(がくぜん)とした。支部に帰って参事に報告せねばという支えの一念で女一人ジャングルで生き抜いてきた今出に心から頭を下げると共に『安らかに成仏してくれ。誰かは必ず生き残って報告するから』と、心の中で誓ったが言葉には出せなかった。それから間もなく今出は重いうらみを残してこの世を去った。死体を軽天に包み赤坂さんが眠っている谷間に葬った。また一人減ってしまった。けれどもそれだけで終わらなかった。翌日の夕刻、筒泉が腹痛を訴えだした。私は目の前が真っ暗になったようなショックを受け『もう、感染してもかまわない』という気になった。人一倍気持ちの優しい筒泉は精神的にひどくやられ憔悴がめだった。一、二日して、自分から進んで「軽天をでる」と言い出した。仕方なく、今出さんのときと同様にバナナの葉を並べて日陰を作り看護に当たった。今出さんに比べてひどい腹痛を訴え狂い回った。その苦しみを見るだけで、腹をさすってやることしかできない私達も苦しかった。

こうして苦しんでいる最中、米軍機が一機低空を飛んだ。空襲だと思ってとっさに伏せたが、空からは爆弾のかわりに白い紙片がヒラヒラと舞い下りてきた。私達はこんな紙片を見るのは初めてだった。それにはボロボロの服を着て痩せこけた兵隊が銃を構えて島の上に立っている絵があり「日本は8月15日に無条件降伏をしたのです。戦争は終わりました。貴方達だけです。飢えと戦いながら銃を構えて頑張らないで、早く平野に出てきなさい」という意味のことが記されていた。しかし、誰が信じよう、平野におびき寄せる手段としか思えず、その紙片をこなごなに破って捨てた。

筒泉は相変わらず苦しんでいた。湯ばかり沸かして、うんと水分を取らせた。今出よりは体力のあった筒泉はかなりもちこたえたが、それでも目だけ異様に光り生きた人間の相ではなかった。軍医部の大尉も少々離れた所に一人で寝ていた。筒泉と同じ状態だった。周囲の畑からは相変わらず銃声が聞こえていた。

二日ほどして例の軍曹が「山一つ向うのゲリラの畑に看護婦が4人いる。地理偵察で出会ったから、君らのことを話しておいた」と話して下さった。夢ではないかと思った。『それこそ後発隊に違いないが、誰が生き残っているのだろう。銃声とどろく畑に留まっていないで早くこちらに来ればいいのに』と考えるだけで感極まってしまう。会いたくて会いたくていらいらしていると、翌日の昼頃、4人の姿が見えた。



12)後発隊、7名(鍋島)の記録

残った者はテントのあった場所や近くを大きな声を出して探して歩いた。何時間探したか…それは長い長い焦燥の時間であった。高い自然林の中は薄暗く、山本さんを呼ぶ声のみが返ってくる。探しあぐねた末に見たものは… 

昨夜の苦しそうな表情が消えて安らかに眠るように横たわっている姿であった。声にならない声で精一杯に名前を呼んだ。返事のあろうはずもないのに、そう叫ばずにはおられなかった。「どうぞ安らかに眠って下さい」というのが私たち班員の精一杯の別れの言葉であった。軽天や木の葉をかぶせて合掌(がっしょう)し冥福(めいふく)を祈った。

先発隊が出発してずいぶん時間が経っていた。木村,川上,斉藤,藤川,鍋島の5人は班の食料品を分けて持った。それからわずかばかりの梅干と塩は石岡婦長にたくした。

 

石岡婦長は今出と一足遅れて来ることになった。「枝を折って目印にしておきます」と先発隊を追って出発した。このようにバラバラに歩くことが死を意味すると知らず、ただ一歩でも踏みとどまることが死につながると考え、河を伝って平野へ平野へと、ただわけもなく歩くしかなかった。

川上の火傷(やけど)した足の皮膚は無惨にただれていたが包帯も薬もない。仕方なくそれを毛布を裂いたのでくるみ歯をくいしばって歩いていた。藤川は行軍(こうぐん)の初めから40度の熱で体力の消耗も激しく、班の中で一番若くお茶目で陽気で人気者だった面影など、もうどこにもなく「死にたい死にたい」と、一~二歩進んでは止まっていた。藤川の前に川上,後に私という形で「もう歩けない」という藤川を励まして歩いた。

『先発隊はどこにいるのだろう。あまり前進していないだろうに…』しかしいつのまにか先発隊の残してくれた木の枝の目印が見えなくなった。河を渡り河の見えるジャングルの中を歩いた。『道を間違えたのかも…。石岡婦長や今出は!』と思っても今来た道を引き返す勇気もない。 

 

しばらく進むと川幅が広がり視界が開けた。『芋畑でも…』という期待はむなしく、石ころが並ぶ河原。

藤川がどうしても歩けないと河原に座ってしまった。一番元気な斉藤まで足を投げ出してものも言わない。川上は足の毛布をといて水ですすぎ河原に伸ばした。こんなに歩いたのに1kmとは進んでいないのだろう。さんさんと降り注ぐ太陽の光になぜか暑さを感じないし汗もかかない。朝、水筒のキャップ1杯のモミを口に入れたきりである。急にうとうとし始める。『眠ってはいけない』と思うと白い湯気のたった真っ白いご飯が現れ『あぁ、うれしい』と口を開けるとサッと消えてしまう。お豆腐の味噌汁が目の前に出て消える。現実と夢が交錯し、考えることも出来なくなった。…と、急に死の恐怖が押し寄せた。

マライバライの第四野戦病院にいたとき、激しい空襲に私はタコツボに逃げて両耳を手で覆い目をつぶっていた。そこへ松田書記が飛び込んで来て“鍋島か”と言ったかと思うとすぐ飛び出してしまった。あとで松田書記が2回も続けて見たという夢がこうであった。“僕がなぁ石段を一段一段と上がって行ったんや、紫の幕に菊の御紋が両方に浮き上がってなぁ、靖国神社だとわかった。なんでここへ来たのかなぁと振り返ると、山本と鍋島が続いているのや。来たら駄目だ!!と叫んで目が覚めた。僕が一番に靖国入りするんやと思うた”というのである。

松田書記の夢の話を考えていると、ふいに「今度は鍋島かもしれへん」という声が聞こえた。死ぬものか、生きるんだと自分の言い聞かせたが言葉にならなかった。涙が出てきた。せめて水でも飲みたいと川面に行ったが、反射的に口から離していた。生水を飲むこともまた死に結びつくということを知らされていたからだ。

私たちは水の中にニラを見つけ、飯盒(はんごう)でお湯を沸かすことにした。普通ならこんなに見晴らしのよい場所で煙を上げるような(上空の敵機に発見されやすい)ことはしないのだが。

湯を沸かしているときに飛行機が頭上を通ったが、だれもなにも言わずに、ゆうゆうとニラを石でつぶして食べた。すでに終戦していたことを知らされたのは後のことである。

お湯を飲むと少し元気が出てきた。と、ガサガサという音がして人の気配がして体を起こすと、河の前方から二人の日本の兵隊が出てきた。向うもおどろいたらしく「君ら、どうしているのか」と、きかれた。兵隊は偵察に来たのだという。木村さんが「先発隊と合流できず、道を間違えたのではないかと思うけれど、食べるものが何もないので困っている」と言うと、二人の兵隊は顔を見合わせて、「ここから2kmほど山へ行くと芋畑があるからとにかくそこに入って芋を食べててから行ってはどうか、このまま河を渡っても川幅は広くなるばかりで死んでしまう。自分らと一緒に行こう」と言ってくれた。私たちはどうしたものかと相談した。やはり先発隊に追いつこうということになったが、藤川がどうしても歩けないと言う。木村さんも出発前に河で転んで前歯を二本折り急に弱気になっていたし、川上も火傷が痛むらしい。斉藤と私は、それならしばらく芋畑に入って、元気を回復して出発しようと決めた。陽のあるうちに歩かないと進めなくなると兵隊にうながされる。芋畑に元気を奮い起こし、気にかかる石岡婦長と今出に私たちのものとはっきり分かるひもを木に結び、枝を折って目印を残した。どうかこの印が二人の目に留まりますようにと祈りながら歩いた。50mほど歩くと、また藤川が泣き出し「ほっておいてくれ」ときかない。藤川の荷物はほとんど斉藤や私が持ち、皆から遅れる形で「芋畑よ、さぁ頑張ろう」と元気付けながら、川上と私が両手をかかえるように一歩一歩あるくしか仕方がなかった。芋畑のあるところに着いたのは夕日も沈む頃であった。兵隊さん達は別の場所に行くからと別れて行った。

 

★芋畑での生活

土民の残した4本の丸木で支えられた腰高のニッパハウスは芋畑の上に建てられ見晴らしはよい。丸木の階段は苦痛だったが、テントを張らなくてもよいし、ギシギシきしんでも平らな寝る場所とかまど(火を燃した跡)があるのがうれしかった。水を汲みに行く元気はなかったが近くに水が流れている場所も教わった。

5人はひとまずここに住居をとり、二~三日で出発する予定をしていた。しかし、安心感からか、藤川が床につき起き上がることもできなくなってしまった。川上の足の火傷はしだいによくなり、目に見えて元気を取り戻した。木村さんは体の具合が悪いのか、外に出て芋を掘ることを嫌われるので、藤川の看病と炊事をお願いした。川上と斉藤と私の三人は陽が昇ると帯剣を持って芋ほりに出かけた。一日にせいぜい五、六個の芋しか見つけられなかったが、芋の茎を煮たり葉を蒸したりして木村さんが料理してくれた。塩を持っている人もあったが、一日に少ししかなめさせてもらえず辛いものが欲しかった。倒木を超えるにも足が上がらない。

ある日、芋を掘りながらカタツムリの殻を見つけた。土を払って大切に持ち石で砕いてなめると塩辛かった。カタツムリを探して三人一緒に畑の横のジャングルに入ると(一かたまりで歩かないと道がわからなくなる)耳のついたカタツムリがいた。木村さんがそのまま火で焼いてくれた。口に入れると泡が口いっぱいにたまって気味悪かったが食べてしまった。

何日か経ったある日、藤川が持っていたお守り袋の中からカビのはえた小さなお餅を「ダバオに居た時、家から送ってきたのよ、皆で食べよう」と出した。大事に持っていたのを思い出したのだろう。一人一人手に取って、カビの生えたお餅(もち)をなでた。お互いに忘れっぽくなっていたが、お餅が出てくるなんてうれしくてうれしくて視線をお餅に集中させて、木村さんが飯盒で炊いてくれるのを見守った。出来上がったドロドロのお餅を、一口ずつなめた。日本のお米だと思うだけで、なめた一口のお餅をたやすくノドへ送りこむことはできなかった。ゆっくりとじわりじわりかむようにして食べた。飯盒の底に残っているのを一人ずつ回してなめた。お米の匂いがたまらなく懐かしかった。その夜は5人で飯盒に残ったお持ちの匂いを顔から離さなかった。

藤川さんの前では先発隊の話題をさけて、家のことを話すようにした。お互いの家の構造から家族のことなど…白い障子や納戸や土間、フカフカした白いご飯の上に梅干がのって…でも食べようとすると遠くへ飛んでいってしまう。話はたいてい、食べるところで終わった。明けても暮れても食糧を求める時間が続いた。

ある日、ジャングルの中で小鳥の声を聞いた。小鳥が鳴いている、何かあるのかもしれない、体力がもどって勘が働くようになっていた。3人で出かけると甘酸っぱいにおいがしてきた。そこに熟した木の実が落ちていた。その上で青や赤の小鳥が実をつついていた。ちょうど小鳥屋で見るような美しい鳥だった。小鳥の食べ残したものを拾いあげた。行軍の途中でお化けのようなワラビを食べて口から泡を出して死んだ人を見たことがあるので『毒かもしれない』と一瞬ためらった。「小鳥が食べてるから大丈夫よ、私が食べてみる」と一口食べると…美味しいこと、甘酸っぱい味、思わず五~六個拾って口に入れた。三人は一つ残さず拾った。『美味しい。木村さんと藤川さんに持って帰ってやらねば、また明日も来ましょう。今日は本当にいい日だった』と喜ぶ。 

南方では植物の成長が早い。芋畑も私たちのもののようになり、ウズラほどのカボチャが二日ほどで人の頭ほどの大きさになったり、キュウリが30cmほどになったりする。あるとき、芋畑のすみで可愛いタカノツメ(赤唐辛子)をみつけた。一口で口中ヒリヒリする。ヒリヒリが残っているところでお芋を食べるとお塩を振りかけた気分になる。皆に分けて、ある場所も教える。私は腹巻の中に入れ大切にしまっておいた。水を汲みに行くのが大変な仕事で交代で飯盒や水筒を持って汲みに行った。 

藤川はあまり変わらず、足のむくみが目立ってきた。出かけるときは「今日はヘビかトカゲがとれたらいいね」とか「キュウリをとってくるよ」と慰めの言葉を残した。 

半月ほどが過ぎた頃には、飛行機が悠々と飛んで行っても何とも感じなくなっていた。この頃、ニッパハウスの下で寝ている赤犬を見た。その夜から遠くで太鼓の音や犬の遠吠えが聞こえたりニッパの下に人の気配を感じたりして気味悪くなった。マッチが少ないのと夜は冷えるということで今までは夜に火を絶やさず少しずつ燃やしていたが、火を消して寝ることにした。その数日後の昼間、火がパッと屋根の上に燃え上がり、パチパチと音を立てて燃え出した。急いでリュックを下に落とし、藤川を背負って降ろし、最後に飯盒を持って飛び降りた。骨折せずに足に少しの火傷で済んだのは不幸中の幸だった。火の手の上がるのを見て、近くの芋畑の兵隊さんが二人かけつけてくれた。「よくもこんな高いところにいたもんだ。ゲリラにねらわれますよ。」と言われ不安になった。今まではまさに知らぬが仏だったのだ。 

 

★後発隊、二班に分かれる

私たち5人そろってその兵隊さんたちのところに行く広さはなく、向うから兵隊さんが3人(少尉と下士官2名が)こちらに来てくださり、くじ引きで斉藤と私がむこうに行くことに決まった。ゲリラに注意しながら陸稲が実ったら少しでも多く持って出発することになった。

火事で動かした藤川は息苦しそうだったが「今度会うときには歩けるようになってるわ、元気でね」と、反対に勇気付けられたが、これが藤川との永遠の別れになろうとは…。

足はだいぶしっかりしてきたが、まだ倒木があると両手で足を持ち上げなくてはならなかった。薄暗い土民道を通って、兵隊さんに遅れないよう必死でついていった。

兵隊さんたちのニッパハウスは見晴らしのいいところで、前の陸稲畑には花が咲き、後ろは芋畑に開拓されていた。伍長と兵長と上等兵の三人のところに斉藤と私が入って5人になった。2週間ほどでお米も少しずつ食べられるようになった。まだ足がはれていて水汲みは大変だったが、いつも斉藤と一緒に炊事を受け持ち芋掘りもした。陸稲の熟した穂を手でしごいてモミを持って帰り鉄かぶとの中でついて米にする。原始的な手作業なのでモミの殻がはがされただけの玄米とモミの入り混じったものであったが、お米のご飯が食べられることが何より嬉しかった。伍長がよい方で「日赤の看護婦として恥ずかしくない行動を取らなくては。日本に帰るまで頑張るんだ」と元気づけて下さった。 

朝夕のジャングルでは野雞(野生のキジのような鳥)が飛び廻り奇声が気味悪かった。ある日、野雞を撃って来たと伍長が持って帰られた。内地の鶏と少しも変わらないのに高い木の上を飛びかうのには驚いた。久しぶりの鶏に斉藤と私が腕をふるうことになり、斉藤が「お塩が少しある」とリュックの底から出してきた。このような時間は長くは続かなかった。 

この頃から鉄砲の音がジャングルにこだまするようになってきた。「誰かが野雞を撃っているのかなぁ。ゲリラかもしれない。」と伍長さんたちは話されていた。 

ある日、夕食にしようと輪になって座ったとき、突然パンパンと鉄砲の音がして誰かが倒れた。「斉藤?」ととっさに叫ぶと「鍋島無事か?」と元気な声がかえってきた。伍長さんがしゃにむに引っ張ってジャングルに走り込んだ。「こんな日のために別の土民道を偵察しておいた」とのこと。裸足のままどれくらい逃げただろうか。またパンパンと鉄砲の音がして急に静かになった。雨が降り出した。すごいスコール。私たちは着の身着のまま、裸足のずぶ濡れ姿で川上たちのいるニッパハウスまで歩いた。「よかったぁ。それにしても上等兵は気の毒な…」と、伍長さんから、私の横にいた上等兵が即死だったことを知らされた。 

二度の銃声に心配していた元のニッパハウスに着くなり、兵隊さんたちは「またこのような襲撃があるかもしれない」と銃の手入れを始めた。私はこのとき、藤川の死を知った。 

 

★同級生、藤川八重子のこと

私と斉藤が兵隊さんのニッパハウスに移ってから、藤川の様子が急に悪くなり、眠るように他界したとのこと。川上から小高い芋畑の丘に土葬したと聞き、全員で参り冥福を祈った。明日は自分の運命かもしれない。藤川と川上と私は背丈が一緒で、班の中ではいつも一緒に後ろの列にいて気が合ったので、一人減ったことに胸が痛む。 

神戸を出発するとき、日赤の正装で川上と三人で写真を撮った。「三人で撮ると真ん中の人が最初に死ぬというから人形を入れよう」ということになった。私たちは神戸で出来上がった写真を実際に手にしたことはなかったのに、行軍の途中で「もう駄目だ」と言い出した藤川が、この迷信の話を川上と私につぶやいた。私たちは「4人だったから迷信を気にしちゃいけない」と断言したのだが。 

襲撃の翌日、昼間ならゲリラの襲撃もないだろうと、伍長と兵長と斉藤と一緒にニッパハウスの様子を見に行った。行軍に備えてやっと貯めた1斗(約18㍑)ほどのお米と斉藤と私の持ち物のリュックが持ち去られ、飯盒と地下足袋だけが残されていた。4人で上等兵を芋畑に埋葬して冥福を祈った。ここは始終監視されているようで、急いで川上たちのニッパハウスに退避した。 

 

★真っ赤な月

当番を作って、水を汲みに芋畑をまっすぐに降りた。昼間でも鬱蒼(うっそう)とした林の中に川が流れていた。水がきれいなので時には水浴や洗濯をした。この日も水の中で体を洗いながら『これが私の体であろうか』と眺めてため息をついていた。とても痩せて皮膚のつやもなく、両膝を抱えると立つこともできない。これでも、体を洗ったり洗濯できるだけでも幸せである。 

水はサラサラ音をたてて流れていて岩と木のあいだから異様に赤い月が見えた。戦争を呪(のろ)う魂の塊のように思われて血塗られたような月におもわずギクリとした。「斉藤、あの月どうしたんやろ、大きいし真っ赤やないの」と言ったが、さすがに「血のような月」とは言葉にできなかった。斉藤は体をふきながら「私もさいぜんから気になっていた」などと話した。体の中を氷が走るような殺気を感じた。私の立っているそばに生々しい素足の大きな足跡があった。その足の指の間がはっきり分かれた足跡は地下足袋(じかたび)を履いている私達の物ではない。『土民のものではないか!』二人は黙って、月に隠れるように重い足を運んだ。真っ赤な月と土民のものらしい大きな足跡の報告をすると、兵隊の一人が「ひでりか大洪水かの天変地異の前兆」と話してくれた。そして、厳重に見張りをするように注意をされた。私達はいつでも逃げられるように準備を始め、ひでりも大洪水も、人間と人間の殺し合いも起こらないように祈った。

 

★川上の負傷のこと

どこからか偵察されているような重苦しい日々が続いた。昼間は肩から袋をさげて手に帯剣を持ち、芋を探したり陸稲の熟した穂を見つけてはしごいてモミを採って鉄かぶとに入れたりした。こうして玄米にしたのだが、玄米といっても半分はモミが入っていて全員のを合わせても一日に5合にもならない。それでも行軍に備えて私達は一生懸命精を出した。マッチが残り少ないのと夜になるとブヨが出るので大きな生木を燃やしていたが、ここも狙われているという予感が強くなり、当番を決めて夜は見張りをした。ここに来て2週間ほどした夕方、雨が降りだしたので雨水を飯盒に受けようと川上と私が立ち上がって並んだ。飯盒を左手に持ち胸の所まで持ち上げた時、パンパンという音と飯盒が手から落ちたのと「痛い」とうなる川上の悲鳴が同時だった。襲撃だと考える暇もなく二人はニッパの方に逃げた。兵隊は全員、弾が来た方に応戦した。平岡伍長が「弾が少ないので無理せず慎重に」と指揮をされ、私たちの避難場所も指示された。川上の右の人差し指から血が流れていた。すぐに頭の三角巾を裂いて止血した。 

パンパンパンヒューンヒューンと弾が飛びかう中、木村,斉藤,川上と私は反対側の斜面にブルブル震えながら逃げ込んだ。川上は歯をくいしばって痛みをこらえている。私の肩に川上の手をのせて痛みを少しでも楽にしようとしたが、雨は降ってくるし寒さでガタガタ震えだした。木村さんと斉藤が手探りで川上の止血をゆるめたりしめたりしていた。私の首に生ぬるい血が流れるのを感じた。すぐに滑り落ちそうな急斜面でツルにしがみついて、神様お守り下さいと祈った。 

静かになって「日本兵らしいのが逃げていく」「いや、土民ではないか?」と言うのが聞こえてきた。平岡伍長が「誰だ、日本人なのか、日本人なら撃ち合いはやめよう、出て来てくれ、食糧も少しはある、一緒に行軍しようじゃないか」と叫んだ。「土人ではない」という声がまたした。「日本人なら撃ち合いはやめよう」と言われた時、パンパンという音と平岡伍長がやられたという兵隊の悲痛な声が聞こえた。斜面でツルや木につかまっている私達にはどうすることもできない。長い長い時間が経ったように思う。雨はやみ、やっと夜がしらんできた。鉄砲の音もしなくなった。私達は川上を護りながら斜面から這い上がった。 

平岡伍長の死は悲しかった。常々「日本人同士は撃ち合ってはいけない。話をすれば分かる。こんな時こそ手を取り合わねば」とおっしゃっていた。「班長殿!」と皆から慕われ信望のあった人だけに一層惜しまれた。残った兵隊で土葬にし冥福を祈った。

鉄砲の音で、分散してニッパの畑にいた兵隊が偵察にやって来た。このところニッパハウスが次々に襲撃され皆殺しされたところもあるそうだ。山の向かいに看護婦が四~五人いるから一緒になれるとも伝えてくれた。どんな人かを尋ねたが、看護婦である以外何も分からなかった。とにかく、本隊に一日も早く合流しようということに決まった。

 

★先発隊との再会

斉藤と私はリュックを盗られてしまったので川上や木村さんから分けてもらった物や米をもらって出発することになった。川上の荷物も斉藤と分けて持った。前に五~六名の兵隊,その次に斉藤,木村,川上,私,その後にまた兵隊が並んで歩いた。『先発隊は12名いたのに四~五名とはとは誰と誰であろう…』とにかく会えると思うだけで嬉しかった。川上の手の傷には薬もなく、仕方ないのでお湯を冷ましてかけて傷口を洗い、頭の三角巾で傷を巻いた。 

この頃から木村さんの咳が激しく「早く日本に帰りたい、帰りたい」と独り言を繰り返すようになった。 

何キロ歩いただろう…、偵察に来てくれた兵隊が「あそこですよ」と指で教えてくれた。『あぁ、いる、いる、懐かしい顔が…、今日は皆に会える』と思うと足が軽くなる。 

兵隊たちは「本隊のいる所までもう少しあるから行きます。お元気で日本に帰って下さい」と別れて行った。 

尾崎,贄田,奥西,牧本がとんで来た。皆手を取り合って泣いて再会を喜び合った、がそれも束の間、筒泉のこと、また班の先輩、同級生の痛ましい最期を聞き、なんともやりきれない気持ちになった。それでも会えたことがどんなに嬉しかったことか!! 

私達は筒泉の寝ているテントに行って「皆元気でよかったぁ、一緒になれたんだから大丈夫よ」と言ったものの筒泉の手を取って皆で泣いてしまったた。私の手は爪が全部そりかえってひどい状態になっていることに初めて気づいた。その日は興奮と安心感で耳だけがさえて眠ることができなかった。筒泉が『鍋島、鍋島』と呼んだ気がしたが、足が腫れて立つこともできない。夜になると目も全く見えなくなっていた。川上も手の傷の痛みにうなっているが、薬もなくどうしようもない。ただ『筒泉、頑張るのよ』『川上、頑張ってね』『神様どうぞ見守って下さい』と心の中で祈るしかすべがなかった。



13)重い決断:白旗を立ててブツアン川を下る

鍋島も極度の疲労と栄養失調で寝込んでしまった。上体を起こして胸のところを押さえるようにすればかろうじて聞こえる程度の声が出せるのだが…。このとき私はふと、二~三個の塩の錠剤を宝のように持っていたことを思い出した。セロハンで幾重にも幾重にも包み込んでお守り袋の中に入れていたのだ。『あぁ、これを鍋島になめさせればこの状態を軽くできるかもしれない』と思いついた。なぜこんなことを思いついたのか、今でも分からないのだが、長い間忘れていた塩の粒のことをこのときになって思い出したのだ。その一粒を鍋島に渡すと、鍋島はビックリしたように感謝したが、結果はよくなかった。久しく塩分を摂らなかった体に急に塩分を与えたので、その副作用だろう、全身にむくみがきた。よけいに鍋島を苦しめて心苦しかった。『こんなものをなめたり人にあげたりするものじゃない』と悔やんだ。とにかく、鍋島はのりきってくれたのでほっとした。 

筒泉は相変わらず腹を叩きながら苦しんでいて『今日か明日までの命では』と案じられた。モルヒネはもしものとき(自決用)と武器の代わりとして持っていたが、体力を失った患者に注射することは死につながることが分かっていた。筒泉には一日でも長く生きて欲しい…。苦痛をやわらげてやることが誠の友情なのか…私達には判断できなくなっていた。 

鉤兵団(こうへいだん)の参謀部将校が土民に案内されて、師団長の命令を書いたガリ版刷りの書類を持って尋ねてきた。それには「昭和20年8月15日大命に基づき停戦協定成立す、予はコグマン捕虜収容所にあり、よって各部隊は左のところに投降すべし」と記してあった。これを私達と一緒にいる参謀が小躍りして読んだのは申すまでもないこと。輜重(しちょう)連隊と工兵連隊から明朝出発の連絡があった。参謀は直ちに集合をかけた。体が動くのは五~六名の兵隊と私達だけなのに、大声で伝令した。私達は筒泉に聞こえはしないかハラハラしていた。残り数日の命の筒泉にはこの事実をできることなら知られたくなかった。 

終戦と聞き一番に感じたことは『あぁ、これで助かった、これで内地に戻れるかもしれないとい』というほっとした気持ちだ。私達のような平凡な人間には、その後の祖国の運命などに想いはおよびもしなかった。が、しかしその次にきたものは死んだ人はどうなるのだ、必ず勝つと信じて死んでいったのに…と思うと泣けて泣けて仕方がなかった。心は全く上の空で、何を考え何を思っているのか、思考力が衰えて何も分からなくなった。 

集合が解かれるか解かれないうち、筒泉が呼んだ。ハッとしてとんでいくと、「日本、負けたんか」と言った。「いや、負けやせん」と答えると、「参謀の声が聞こえた」と言った。私は思わず「嘘だ」と言ってしまった。筒泉は「貴女ら山降りるんやろ」と言う。「筒泉をほって降りやせん」と答えると、「私がいま少し元気な姿で、少しでも歩けるならば皆と一緒に山を降りるけど、こんなみじめな姿になって米軍の前にでるのはいや。恥さらしに降りとうはない、殺して欲しい」と言い出した。「無理言ったらいかん、無茶や」と言ったがどうしてもきかない。 

斉藤と私は参謀のところへ行ってこのことを話した。すると参謀は、「さぁ、女ならこんな場合どうするかな。男なら自決するけどなぁ…」と言った。

無性に腹が立って「女でも武器があれば自決します」と叩きつけるように言って荒々しくその場を去り、その足で軍医部の曹長の所に行った。曹長は「貴女達の気持ちもよく分かる。が、真の友情があるなら注射をしてやることだ。注射薬がなければさしあげますよ」と言った。斉藤と私は悲しくて涙が出て仕方なかった。とにかく「薬はありますから…」とその場を辞した。 

斉藤と私は筒泉のそばに行った。腹が痛いらしく腹を叩いているので、バナナの葉を上においてしばらくさすっていた。涙を見せまいと必死にこらえたが…涙で顔が上げられなくなった。筒泉は静かに「あのなぁ、お母ちゃんにだけもう一辺会いたかったと言うといてなぁ…」と、ボロボロ涙をこぼした。 

斉藤と私は相談して『痛みを止めてやるのだ、痛みを止めてやるのだ』と…三分の一アンプルだけ注射することにした。普通の人なら鎮痛剤にも足りない量であるが…。「筒泉、今すぐ痛みが止まるから」と言いながら注射をしようとした。が、どうしてもできなかった。結局、筒泉は一晩中苦しんで、私たちの手を握りしめたまま旅立った。『一足先に内地に帰ってお母さんに会っている』と思うしかなかった。 

夜明けに拳銃の音がした。ジャングルにわいている小ヒルが目に吸いついたとかで下痢でふせっていた軍医部の大尉がとうとうみんなと行動ができぬとさとり、拳銃自殺をしたのだ。一度は嫌ったが、こうなれば誰が悪いのでもない、みんな気の毒なのだと、見えない大きな力に怒りを感じた。 

早々に荷物をまとめて久野連隊長の山に集合した。看護婦は8名になっていた。その日のうちに下山して川原に着いた。

このまま山を通って平野を目指すのは危険との判断で、いかだを組んで川を下ることになった。看護婦としての容赦などなく、竹切りやいかだ組みを兵隊と同様にした。どこの隊か知らないが、年取った少尉が口わるく私達をこき使った。この人がどうして私達に冷たくするのか分からなかった。いかだが出来上がると、私達はそれぞれ兵隊のいかだに分散して乗ることに決まった。参謀部の曹長が贄田と私に「俺のいかだに乗りなさい」と言われた。川上が選りによってあの意地悪い少尉のいかだに乗るようになってしまった。少しずつ間をおいて出発した。参謀や久野隊長はずっと前のいかだに乗っているのか、見当たらなかった。夜がくると岸に上がって宿営した。一いかだごとに飯盒でご飯を炊くように決められていたが、看護婦の飯盒をかけてくれる兵隊は一人もいなかった。贄田と私は二人で軽天を張り、二人で飯盒一杯のご飯を炊き、ブトにくわれないように手足と顔を下着のボロに包んで抱きあうようにして幾晩かを過ごした。川幅が広くなって平野に出た頃から、いかだが通ると部落から部落に知らせるらしく土民が銃で合図をするので、危険を感じて一斉に白旗をつけた。白旗には私の下着を提供した。川幅が広くなるにつれて渦を巻いている箇所が増え、動きがとられることがあった。特に川上が乗っているいかだは少尉さんが下手で、たびたび渦の中をグルグル回っていた。一晩遅れてくる川上のいかだを待つこともあったが、川上は何も言わずに運は天に任せたという顔でいかだの真ん中に平然と座っていた。この川上の態度は実に感じ入ったもので、日々ビクビクしていた私達は大いに見習うところがあった。 

明日はいよいよ大きな川との合流点で、そこには大きな渦が巻いていて普通の船でも巻き込まれたら最後だと聞いた。『ここまで来ていよいよか…』と恐ろしかった。しかし、まさに天祐神助。そのちょっと手前まで米軍のランチが迎えに来ていた。私達はホッと、ランチに乗り込みアグサン州サグントにある米比軍(アメリカとフィリピンの連合軍)に投降したのである。


14)武装解除

兵隊たちは幕舎に、私達は刑務所だったという建物の中にベッドを入れて収容してくれた。

アメリカ軍の日系二世がかわるがわる見舞いに来てくれて、「米軍は、貴女達が兵隊と一緒にジャングルの中に入ったと知って探しに行ったが見つからなかった。貴女達はジュネーブの国際赤十字条約を知らないのか…」と言った。「知ってはいたが理屈と現実は違う」と答えるより仕方がなかった。私達は必要以上におびえ、愚かにも国際赤十字条約を思い出すことすらできなかったのだ。水兵服を着た米軍がカメラを私達に向けた。私達はとっさに身体を伏せた。こんな姿を写真に撮られたら日本女性の恥だと思った。 

兵隊は皆この場で武将解除。

 

四~五日してアグサ州グツアン米軍俘虜収容所に移された。

アグサ州グツアン米軍俘虜収容所に着くと、先に収容されていた兵隊や将校が飛んで来て「よくもこれだけ生きてこられた、奇跡だ。よく頑張って耐えてくれた」と涙を流されたのには驚いた。所が変われば人の気持ちも変わる…、これがあの山の人たちの生き残りかと思うと不思議な気持ちになった。

それよりも私達の目を疑わせたのは、いよいよジャングル入りと決まったとき、リナポに乾パンを与えて置き去りにした患者達がピンピンして目の前に現れたことであった。『人間なんて何が幸で何が不幸か分からない』とはこの事だ。立派に治療してもらって内地に帰る日を待っている。心の底からよかった、よかったと思った。何もかもが本当に運命なのだとしみじみ思った。

後発隊が合流したときから木村さんが結核にかかっていることは分かっていたが、軽い咳の発作が絶え間なく襲うようになり苦しそうだった。「内地に早く帰りたい、早く、早く…」と言っておられたが、診察を受ける前に亡くなってしまった。心臓麻痺なのか、それとも急に栄養のあるものを口にしたためか原因は分からない。とにかくベッドの中で静かな寝顔だった。『内地までは体力がもつまい…』と覚って、よけいに内地が恋しくなったのだろう…と涙を誘った。木箱に入れられ、米軍と鍋島と奥西に付き添われてデルモンテーの米軍墓地に手厚く葬られた。ただ一人の上級生だった木村さんはここまで来てさぞ無念だったことだろう。いよいよ7人になってしまった。 

私達は師団長閣下なみの待遇で、私達には食べきれないほどの缶詰などの食料品が出た。グツアン米軍俘虜収容所に着てからは元師団長がいたという幕舎に入れてもらって、掃除一切は日本の将校が米軍の引率のもとでしてくれた。この頃から、私は午後になると発熱していた。掃除にやってきた元将校に気の毒でベッドから起き上がろうとすると「寝ていて下さいよ。もともと我々の責任でこうなったのですから」と、それを制した。が、誰の責任でもない。気の毒で、手をつけずにとっておいた食料品を、掃除に来てくれる将校さんにそっと渡してあげた。幕舎のまわりには米軍が歩哨に立った。米軍の日系二世がオーストラリア製の化粧品セットを大量に持って幕舎を訪ねてくれた。 

「日本の女性は美しいものです。日本の女性が汚くては絶対にいけないのです。これを使って下さい」と差し出されたときには、二世の気持ちが痛いほど胸にこたえて恥ずかしかった。

「何かいるものがあれば言って下さい」と言われて「チリ紙が欲しい」と答えると、早速、石炭箱にいっぱいのトイレットペーパーを持って来てくれたのには恐縮した。

 

ここもまた去るときがきた。船がミンダナオ島の岸壁を離れるとき『これで死神と別れられる』と心の底から安心した。英霊は必ずお母さんのもとに戻っていると信じながら『あの谷、あの川の遺体よ安らかに』と祈り続けた。レイテに移るランチの中で久野隊長に再会した。隊長の周りに私達7人は席を占めた。なんといっても命の恩人である。横にいるだけで心がなごんだ。タクロパン港に着いてお別れして以来、一度も久野隊長にお目にかかれないでいる。 


15)母国上陸

レイテ島の収容所で約半月を過ごし、11月25日に米軍輸送船ジョンエルサルパン号に乗船、翌26日にレイテ島タクロパン港を出発。

12月4日、浦賀に入港した。船上より富士山だけがぽっかり浮き上がったように雲の上に見えたときの感動は忘れられないが、十五柱の霊と共に浦賀の土を踏みしめたとき、言いようのない悲しさにおそわれて、内地に無事帰って来たのだという喜び感激などは不思議にわいてこなかった。何故だろう。それは内地が戦災で荒廃しており、人も家も、私達が救護任務に勇躍したときと事情がまるで違ったことを理解できなかったせいかもしれない。あんなに夢見た母国の現状が悲しみを一層深いものにした。

喜びや感激はかき消されて空虚さだけになった。


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